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実績・コラム

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「私」と「僕」のあいだで考えたこと。ブランディングと判断と文化継承と。

  • #コラム
2026.07.13

経営者の一人称を何とするか。

一般的には、「私」である。

公的な文章において、女性なら「あたし」とは書かない。男性も「俺」「僕」は使わない。それが日本における一般的な常識であり、トーンであり、マナーであり、礼儀であり、ある一定の品格でもある。

私自身もそう考えているし、それが最もだと思っている。

特に経営者という存在は、公的人間と同義であると思っているからだ。

会社の代表とは、人前に立つ人である。会社で何かが起きれば責任を負う立場であり、世間を騒がせるようなことがあれば、その名前は公になる。そうでなくても、会社を調べれば代表者名はすぐに出てくる。

社員とは違う。

経営者は、すでにプライベートな個人ではない。

だからこそ、公人が語る言葉には配慮が必要だ。

ブランディングを担い、最後に言葉を整える側としても、それは当然考えるべきことだと思っている。

だから私は、これまで「私」を使ってきた。

それが一般的であり、正解であり、暗黙のルールだからである。

言い方を変えれば、無難とも言える。

ただ、その「無難」を押してでも、変えたいと思わせる経営者が、ごくたまにいる。

コトノハ合同会社として十一年以上、数多くの経営者を取材してきた。その中で、「私」ではなく「僕」を使いたいと思った方が二人いた。

一人は十年ほど前、学習塾を経営されていた方だった。

セルフブランディングにも長けた方で、その人らしさを考えたとき、「僕」のほうが自然だと思った。

もちろん、「私のほうがいいのではないか」という意見もあった。

私は、なぜ「僕」だと思ったのか、その理由を説明した。

すると、「今回は僕でいきましょう」ということになった。

それ以来、私は再び「私」を使い続けてきた。

経営者という立場を考えれば、それが自然だからだ。

もちろん、「私」にした瞬間、その人の息遣いは少し薄れる。

語り口も、温度感も、魅力も少しだけ整えられる。

それでも、その人が語っている思想は残る。

だから私は、それほど気にしていなかった。

ところが今回、本当に久しぶりに「僕」「僕ら」を使いたくなった経営者が現れた。

彼は、いわゆる天才である。

発想が豊かで、人の心の機微を深く読み取る。

考える量も圧倒的に多い。

周囲がついていけないこともあるが、その先には必ず魅力的な商品が生まれ、多くのお客様がファンになる。

やり方も世間一般とは少し違う。

私は心から尊敬している。

今回、その方の創業者ブランディングを任された。

私は、自分の仕事を作品だと思ったことは一度もない。

大切なのは、お客様が何を求めているのか。

この記事で何を伝えたいのか。

どんな影響を与えたいのか。

そこから逆算して言葉を選ぶ。

一人称も、その一つである。

だから、誰も気づかないような細かな表現まで何が最適かを考える。

後世に残る文章だからこそ、その人が正しく伝わってほしいと思っているからだ。

もちろん、私の考えが完璧だとは思っていないし、唯一の正解だとも思っていない。

だから必ず本人にも確認していただくし、周囲の方にも読んでいただく。

いろいろな視点を通った先に、一番よい形があると思っている。

そんな私が、今回は「僕」を使いたかった。

それだけ、その人の個性が魅力的だったからである。

飾られた「私」ではなく、普段語っている「僕」のほうが、その人そのものだった。

その息遣いを、その温度を、そのまま伝えたいと思った。

その人の雰囲気という薫りがもしかしたら届くかもしれない、そう思って「僕」「僕ら」で原稿を書いた。

ところがというより当然のごとく、広報・PRを担当されている方からフィードバックをいただいた。

「やはり『私』『私たち』のほうがよいのではないでしょうか。」

その意見はもっともだった。

企業として、これから長く発信していく。

今回の記事だけではない。

ここから始まるすべての創業者ブランディングとしての発信のトーン・アンド・マナーになる。

そう考えれば、「私」のほうが正しい。

電話でいろいろ話をした。

考えも聞いた。

その上で、その方は最後にこう言ってくださった。

「とはいっても、国場さんの判断に委ねます」

その言葉が、とてもありがたかった。

私の考えを否定するのではなく、尊重した上で委ねてくださったからだ。

電話を終え、少し時間を置いて、もう一度原稿を読み返した。

そして決めた。

今回は、「私」に戻そう。

長い企業戦略のスタートラインなのだから、私の小さな野望や、小さな欲求は必要のないことだった。

企業にとって正しいと思うことを選ぶ。

それが今回の判断だった。

だから、もう一度文章を整えた。

少しだけパブリックな言葉へと寄せた。

それでよかったと思っている。

ただ、一つだけ思うことがある。

「私」「私たち」は、圧倒的に正解である。

でも、正解ばかりを積み重ねると、人の体温は少しずつ消えていく。

誰が話しても同じ文章。

誰が書いても同じブランド。

そんなものばかりになってしまう危うさもある。

文章とは、本当に難しい。

長く残るからこそ。

多くの人が読むからこそ。

どこに標的を置き、どこまで整え、どこまでその人らしさを残すのか。

その判断に、絶対の正解はない。

AIなら、きっと迷わない。

でも、人間は迷う。

迷って、考えて、また迷う。

その末に出した答えだからこそ、その人らしい仕事になるのではないかと私は思う。

これから私たちはAIをもっと使うだろう。

AIにも、もっと助けられるだろう。

それ自体は悪いことではない。

ただ、最後の判断だけは、人間が持ち続けなければならない。

そこをAIに預けてしまったら、仕事は色あせる。

会社も色あせる。

たとえ利益が出たとしても、そこに関わる人の心は、どこか空虚になるのではないか。

そんな気がしている。

一介のブランディング屋が語るには、大げさな話かもしれない。

それでも、私は思う。

言語化をする人間は、企業のブランディングだけをしているわけではない。

顧客心理だけを扱っているわけでもない。

その国の文化を扱っている。

一人称一つにも、その国の礼儀があり、価値観があり、歴史がある。

だから私は、細かな、誰も気にしないような表現にも悩む。

面倒な仕事である。

それでも、この仕事を続けているのは、言葉には文化を未来へ渡す力があると信じているからだ。

その矜持だけは、これからも手放したくない。