実績・コラム
「私」と「僕」のあいだで考えたこと。ブランディングと判断と文化継承と。
- #コラム
経営者の一人称を何とするか。
一般的には、「私」である。
公的な文章において、女性なら「あたし」とは書かない。男性も「俺」「僕」は使わない。それが日本における一般的な常識であり、トーンであり、マナーであり、礼儀であり、ある一定の品格でもある。
私自身もそう考えているし、それが最もだと思っている。
特に経営者という存在は、公的人間と同義であると思っているからだ。
会社の代表とは、人前に立つ人である。会社で何かが起きれば責任を負う立場であり、世間を騒がせるようなことがあれば、その名前は公になる。そうでなくても、会社を調べれば代表者名はすぐに出てくる。
社員とは違う。
経営者は、すでにプライベートな個人ではない。
だからこそ、公人が語る言葉には配慮が必要だ。
ブランディングを担い、最後に言葉を整える側としても、それは当然考えるべきことだと思っている。
だから私は、これまで「私」を使ってきた。
それが一般的であり、正解であり、暗黙のルールだからである。
言い方を変えれば、無難とも言える。
ただ、その「無難」を押してでも、変えたいと思わせる経営者が、ごくたまにいる。
コトノハ合同会社として十一年以上、数多くの経営者を取材してきた。その中で、「私」ではなく「僕」を使いたいと思った方が二人いた。
一人は十年ほど前、学習塾を経営されていた方だった。
セルフブランディングにも長けた方で、その人らしさを考えたとき、「僕」のほうが自然だと思った。
もちろん、「私のほうがいいのではないか」という意見もあった。
私は、なぜ「僕」だと思ったのか、その理由を説明した。
すると、「今回は僕でいきましょう」ということになった。
それ以来、私は再び「私」を使い続けてきた。
経営者という立場を考えれば、それが自然だからだ。
もちろん、「私」にした瞬間、その人の息遣いは少し薄れる。
語り口も、温度感も、魅力も少しだけ整えられる。
それでも、その人が語っている思想は残る。
だから私は、それほど気にしていなかった。
ところが今回、本当に久しぶりに「僕」「僕ら」を使いたくなった経営者が現れた。
彼は、いわゆる天才である。
発想が豊かで、人の心の機微を深く読み取る。
考える量も圧倒的に多い。
周囲がついていけないこともあるが、その先には必ず魅力的な商品が生まれ、多くのお客様がファンになる。
やり方も世間一般とは少し違う。
私は心から尊敬している。
今回、その方の創業者ブランディングを任された。
私は、自分の仕事を作品だと思ったことは一度もない。
大切なのは、お客様が何を求めているのか。
この記事で何を伝えたいのか。
どんな影響を与えたいのか。
そこから逆算して言葉を選ぶ。
一人称も、その一つである。
だから、誰も気づかないような細かな表現まで何が最適かを考える。
後世に残る文章だからこそ、その人が正しく伝わってほしいと思っているからだ。
もちろん、私の考えが完璧だとは思っていないし、唯一の正解だとも思っていない。
だから必ず本人にも確認していただくし、周囲の方にも読んでいただく。
いろいろな視点を通った先に、一番よい形があると思っている。
そんな私が、今回は「僕」を使いたかった。
それだけ、その人の個性が魅力的だったからである。
飾られた「私」ではなく、普段語っている「僕」のほうが、その人そのものだった。
その息遣いを、その温度を、そのまま伝えたいと思った。
その人の雰囲気という薫りがもしかしたら届くかもしれない、そう思って「僕」「僕ら」で原稿を書いた。
ところがというより当然のごとく、広報・PRを担当されている方からフィードバックをいただいた。
「やはり『私』『私たち』のほうがよいのではないでしょうか。」
その意見はもっともだった。
企業として、これから長く発信していく。
今回の記事だけではない。
ここから始まるすべての創業者ブランディングとしての発信のトーン・アンド・マナーになる。
そう考えれば、「私」のほうが正しい。
電話でいろいろ話をした。
考えも聞いた。
その上で、その方は最後にこう言ってくださった。
「とはいっても、国場さんの判断に委ねます」
その言葉が、とてもありがたかった。
私の考えを否定するのではなく、尊重した上で委ねてくださったからだ。
電話を終え、少し時間を置いて、もう一度原稿を読み返した。
そして決めた。
今回は、「私」に戻そう。
長い企業戦略のスタートラインなのだから、私の小さな野望や、小さな欲求は必要のないことだった。
企業にとって正しいと思うことを選ぶ。
それが今回の判断だった。
だから、もう一度文章を整えた。
少しだけパブリックな言葉へと寄せた。
それでよかったと思っている。
ただ、一つだけ思うことがある。
「私」「私たち」は、圧倒的に正解である。
でも、正解ばかりを積み重ねると、人の体温は少しずつ消えていく。
誰が話しても同じ文章。
誰が書いても同じブランド。
そんなものばかりになってしまう危うさもある。
文章とは、本当に難しい。
長く残るからこそ。
多くの人が読むからこそ。
どこに標的を置き、どこまで整え、どこまでその人らしさを残すのか。
その判断に、絶対の正解はない。
AIなら、きっと迷わない。
でも、人間は迷う。
迷って、考えて、また迷う。
その末に出した答えだからこそ、その人らしい仕事になるのではないかと私は思う。
これから私たちはAIをもっと使うだろう。
AIにも、もっと助けられるだろう。
それ自体は悪いことではない。
ただ、最後の判断だけは、人間が持ち続けなければならない。
そこをAIに預けてしまったら、仕事は色あせる。
会社も色あせる。
たとえ利益が出たとしても、そこに関わる人の心は、どこか空虚になるのではないか。
そんな気がしている。
一介のブランディング屋が語るには、大げさな話かもしれない。
それでも、私は思う。
言語化をする人間は、企業のブランディングだけをしているわけではない。
顧客心理だけを扱っているわけでもない。
その国の文化を扱っている。
一人称一つにも、その国の礼儀があり、価値観があり、歴史がある。
だから私は、細かな、誰も気にしないような表現にも悩む。
面倒な仕事である。
それでも、この仕事を続けているのは、言葉には文化を未来へ渡す力があると信じているからだ。
その矜持だけは、これからも手放したくない。
